1984年6月、モスクワの科学アカデミーで働いていた一人のプログラマーが、業務の合間に小さなパズルゲームを作りました。アレクセイ・パジトノフのテトリスです。
その後どうなったかは、ご存じの通りです。50を超えるプラットフォームに移植され、累計で数億本が売れました。ではパジトノフはいくら受け取ったのか。最初の10年間、ゼロです。
国の職員が作ったものは、国のもの
理由は単純で、彼はソ連の国家機関の職員だったからです。勤務中に作ったものの権利は国に属し、ライセンス管理はエレクトロノルグテクニカ、通称ELORGという国営組織が10年間にわたって握ることになりました。ゲームが世界中で売れても、お金はそちらへ流れます。
権利関係は、当時かなり混乱していました。イギリスのアンドロメダ社のロバート・スタインが1986年にハンガリーでテトリスを見つけてライセンスを取りに動くのですが、ELORGが彼に与えていたのは家庭用コンピューター向けの権利だけでした。ところがそこから家庭用ゲーム機の権利がミラーソフト、さらにアタリの子会社へと又貸しされていきます。ELORGは、その連鎖を一度も正式に承認していませんでした。
モスクワの住所も分からないまま乗り込んだ男
ここに割って入ったのが、日本でゲーム会社を経営していたヘンク・ロジャースです。1988年の見本市でテトリスを見て衝撃を受けた彼は、1989年、携帯機向けの権利を取るためにモスクワへ飛びます。
面白いのは、彼が交渉場所を知らないまま行ったことです。通訳を雇い、丸一日モスクワ市内を回って、ようやくELORGの所在を突き止めたと本人が語っています。そして責任者のニコライ・ベリコフと交渉し、携帯機の権利を獲得しました。同じ1989年3月、ELORGは任天堂と家庭用ゲーム機の権利について契約を結び、その日のうちにミラーソフトとスタインへ、家庭用機と携帯機の権利はもう手元にないと通告しています。
この権利がゲームボーイに乗ります。ゲームボーイ版テトリスは3500万本以上を売り、携帯ゲーム機を当時の覇者にしました。それでもパジトノフの取り分はありません。
「お金にはならなかったけれど、幸せだった」
交渉のあと、パジトノフはロジャースをモスクワ案内に連れ出し、ウォッカを飲みながら語り合ったそうです。ロジャースは、なぜかすぐに互いを気に入った、と振り返っています。1991年、ロジャースの助けでパジトノフはシアトルへ移住します。
そして1996年、10年の契約が切れて権利がパジトノフ本人に戻りました。同じ年に二人はテトリス社を設立し、彼はようやく自分のゲームで収入を得始めます。作ってから12年目のことでした。
この10年について、パジトノフはこう語っています。最初はあまりお金にならなかったが、自分にとって一番大事なのは人々が自分のゲームを楽しんでいるのを見ることだったので、幸せだった、と。
ひとつ補足を。2023年にこの経緯を描いた映画が公開されましたが、KGBに追われるカーチェイスの場面は完全な創作です。KGBが実際にロジャースの東京の事務所に来たというのは本人の証言として残っていますが、映画での扱いはかなり誇張されています。それを差し引いても、住所も知らずにモスクワへ飛んだ話のほうが十分に無茶だと思います。
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参考にした情報源: tetris.com

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