非常口の、緑地に白い人が走っているあのマーク。日本生まれだということは案外知られていますが、国際規格になるまでに、冷戦下のソ連案との競り合いがあったことは、ほとんど知られていません。
きっかけは、1972年の千日デパート火災(死者118人)と、1973年の大洋デパート火災(死者104人)でした。当時の非常口表示は漢字3文字。子供や外国人には読めず、誘導灯も高い位置にあったり小さすぎたりで、煙の中では役に立ちませんでした。1979年、日本消防設備安全センターが消防庁などの協力を得て、絵文字による表示を全国公募します。集まった応募は3,337点。ここから選ばれ、太田幸夫さんら3人のデザイナーによって仕上げられたのが、現在のマークの原型です。
「日ソ対決」と新聞が書いた
1980年6月、日本は視認性テストの英文報告書を添えて、この案を国際標準化機構(ISO)の専門委員会に提出します。ところが、審議はすでに数年に及んでおり、ソ連案でほぼ決まりかけていました。そこへ遅れて日本案が持ち込まれたため、当時の新聞は「日ソ対決」「日欧戦争」と書き立てたそうです。太田さん本人が、後年の論文の中でそう振り返っています。
ソ連側は正式にクレームを出してきましたが、日本側はデザイン上の反論と視認性テストの結果で応じ、1982年4月のISOロンドン会議で、ソ連は自国案を取り下げました。ちなみにソ連案も「扉と走る人」という、日本案によく似た構図だったといいます。
「下端を閉じろ」というイギリス案を蹴った理由
決着後も修正案が出ます。イギリスは扉の枠の下端を閉じる案を、フランスは壁と床の間にも白い線を入れる案を提出しました。太田さんはこれを拒みます。理由が面白いんです。「下端を閉じると額に入った絵となり、走る人を囲む白い空間が、見る人を囲む空間とつながる効果が断ち切られてしまう」。つまり下端が開いているからこそ、絵の中で逃げている人が「見ているあなた自身」になる、という設計思想でした。このマークは1987年、ISO 6309として国際規格になっています。
現在、このピクトグラムはEU、中国、韓国、オーストラリアなどで使われ、カナダも2010年の建築基準で赤い文字表示から緑のマークへ切り替えました。先進国でほぼ唯一の例外がアメリカで、今も法規が「EXIT」の文字表示を求めています(所轄当局が認めればピクトグラムも使用可)。ただしアメリカ国内でも、ニューヨーク市やイリノイ州は赤、ボルティモアやポートランドは緑と、色の規定はばらばらだそうです。
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参考にした情報源: jstage.jst.go.jp

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